1929年12月23日に米国中西部のオクラホマ州イエールに生まれ、西海岸のカリフォルニア州グレンデールで育った。本名Chesney Henry Baker。同世代の高名なジャズ・トランペット奏者にはマイルス・デイヴィス(1926~91)、クリフォード・ブラウン(1930~56)がいる。父親はギタリスト、母親は香水工場に勤めながら趣味でピアノを弾いていた。幼いころから合唱団で歌い、12歳の時に父親にトロンボーンをプレゼントされたことがきっかけで管楽器への関心を深めた。その後トランペットに持ち替えて活動を開始し、48年にはエル・カミノ・カレッジに入学して音楽理論と和声を専攻した。

52年春、当時最高峰のアルト・サックス奏者のひとりであったチャーリー・パーカーに認められて彼の西海岸ツアーに参加。夏になると、ニューヨークから移住して間もないバリトン・サックス奏者ジェリー・マリガンとコンビを組んだ。楽器編成はバリトン・サックス、トランペット、ベース、ドラムス。ピアノが参加していない(ピアノレス)ことも当時のジャズ界では異彩を放った。しかし、このグループはマリガンの薬物トラブルにより約1年で解散。チェットはピアニストのラス・フリーマンをパートナーに、新たなバンドを結成する。マイルスやクリフォードを抜いて、ジャズ専門誌の人気投票でトップに輝いたのもこの時期だ。また54年には、初のヴォーカル・アルバム『チェット・ベイカー・シングス』も制作している。ライヴ会場は女性客であふれ、ハンサムな容姿、語りかけるような歌声やトランペットの優しい音色に嬌声があがったときく。大西洋ではジョアン・ジルベルトが彼の歌声に感応、これがボサ・ノヴァ誕生の一因となる。

55年9月には初めてのヨーロッパ・ツアーを敢行。途中でピアニストのリチャード(ディック)・トゥワージクが薬物の過剰摂取により急逝する(享年24歳)というアクシデントもあったが、56年4月まで巡業を続けた。58年に入るとニューヨークに本拠地を移し、ビル・エヴァンスなど東海岸の精鋭とアルバムを制作。59年夏には定住を決意してイタリアに渡るが、翌年夏に薬物不法所持のかどで逮捕され、約1年半もの間、演奏活動を中断した。

64年春にアメリカに戻ってからはトランペットに替わって、よりまろやかな音が持ち味のフリューゲルホーンを中心に演奏。ボビー・スコット(ビートルズも歌った「ア・テイスト・オブ・ハニー」の作者)、ボブ・ジェームス(のちにフュージョン界の大物になる)ら気鋭との共演にも取り組んだ。65年末からは、当時大流行していたハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスを意識したのであろう“マリアッチ・ブラス”なる企画にも取り組んだが、翌年に薬物関係のトラブルで暴漢に襲われ、歯や唇を損傷してしまった。

一時は再起不能と伝えられたものの、大先輩のトランペット奏者ディジー・ガレスピーらの励ましを受けてカムバック。再びトランペットと歌に専念し、74年には当時飛ぶ鳥を落とす勢いのCTIレコードにて復帰作『枯葉』を録音した。マリガンとの歴史的な再会コンサートをニューヨーク「カーネギー・ホール」で開催したのもこの年のことだ。75年からはヨーロッパ・ツアーも再開、エンリコ・ピエラヌンツィ、リシャール・ガリアーノ、エルヴィス・コステロ、ヴァン・モリソンなど数多くの才人とコラボレーションを楽しんだ。86年には“奇跡”といわれた初来日が実現。翌87年にも我が国を訪れ、晩年屈指のパフォーマンスを繰り広げた(アルバム『メモリーズ』)。ファッション写真の分野で著名なブルース・ウェーバーが監督と編集を手がけたドキュメンタリー映画『レッツ・ゲット・ロスト』の撮影も同年1月から開始された。しかしベイカーは完成版を見ることなく、88年5月13日オランダ・アムステルダムのホテルの部屋から転落、帰らぬ人となった。映画は88年9月15日のトロント国際映画祭でプレミア上映され、同年度アカデミー賞のドキュメンタリー・フィルム部門にノミネートされている。

チェット登場以前の“歌うトランペッター”といえば、ルイ・アームストロングに代表されるように、声量たっぷりに野太く歌い、並はずれた肺活量と唇の強さを誇るかのように高音を吹きまくるスタイルが主だった。しかし彼はそれと正反対のアプローチをとった。決して力まず、クールに。そのスタイルは現在もティル・ブレナーやアンドレア・モティスのパフォーマンスに受け継がれている。そしてマライア・キャリー、ジョーイ・バッダス、トリッキーなど多くのアーティストがその音源をサンプリングしている。非ファンク~ソウル系のジャズ・ミュージシャンで、これほど“抜き取られている”存在はチェット・ベイカーをおいて他にない。